ブロンテ姉妹に思いを馳せて

英国で生活していると、まるで黒鉛筆だけで写生したような陰鬱な風景にしばしば出会う。グレー色の雲と白い霧が厚く覆った景色を見るたび、私の頭には「Dreary」という単語が浮かび、ゴシック小説の世界に迷い込んだような気持ちで心が震えるのである。

「Dreary」は英語で言うと、「侘しい、陰気な」という意味が近しいが、この単語に初めて触れたのは、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』とシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』を読んだ時だった。ゴシック小説の系譜を引くこれら二作品では、ほとんどのシチュエーションで「Dreary」と形容される空が描写され、寂しさや絶望感を抱く主人公の心情が投影されているのである。その印象がとても強くて、私はイギリスの霧がかった曇り空を目にするたびに「Dreary」と呟くのだった。

紛れもなく、私がゴシック小説に没頭し始めたきっかけはブロンテ姉妹の作品だった。ゴシック小説とは、ゴシック・ロマンスとも呼ばれるが、18世紀末から19世紀初頭にかけてイギリスで流行した、廃墟の屋敷や修道院を舞台とし、幽霊や怪物などの神秘現象を描写した小説である。日本では『フランケンシュタイン』や『ドラキュラ』がお馴染みだろう。

ゴシック小説の始祖であるホラス・ウォルポールが建てたゴシック風の城「ストロベリー・ヒル」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Strawberryhill.jpg#/media/ファイル:Strawberryhill.jpg

ブロンテ姉妹の作品はやや後期にあたるが、この系譜に含まれる。ただし、初期のゴシック小説群と比較すると、彼女たちの作品は、登場人物たちの感情がしっかりと描き出されているのが特徴的だ。ゴシックらしい幽霊の蔓延るおどろおどろしい世界観の中、主人公たちが愛憎の感情をむき出しに繰り広げる切ないロマンスに、私はすっかり魅了されたのだった。

今回は、『嵐が丘』、『ジェーン・エア』の作者であるエミリー、シャーロットを含むブロンテ三姉妹が生涯を送った場所であり、『嵐が丘』の舞台となった荒野もある、ウエスト・ヨークシャー州のハワース村へご案内したい。

ブロンテ姉妹もかつて歩いたであろう、ハワース村の通り

ブロンテ姉妹の生涯

ブロンテ姉妹とは、シャーロット、エミリー、アンの三姉妹を指し、三人ともに作家であった。彼女たちがかつて生活していた家は、現在では彼女たちに関する博物館になっており、当時の暮らしぶりや生涯について学ぶことができる。

三姉妹がかつて住んでいた家である、ブロンテ・パーソネージ博物館
博物館の看板も愛らしい

彼女たちの父親パトリックは牧師であり、この家は牧師館でもあった。三姉妹には、マリアとエリザベスという二人の姉がいたそうだが、それぞれ11歳、10歳の時に結核で亡くなっている。さらに母親も、五女であったアンを産んだ翌年に死別したそうだ。その後は、四人目の子供であり唯一の息子であったブランウェルも含めブロンテ家は五人で生活していた。

文才のあった三姉妹たちはそれぞれ私塾の教師や家庭教師をつとめた後に、文壇デビューを果たしており、1847年にシャーロットが『ジェーン・エア』、エミリーは『嵐が丘』、アンが『アグネス・グレイ』と、後年に残る名作品を同年に次々と発表したのだった。当時女性が文筆業を行うことは珍しく、シャーロットは始め男性の名前で出版社へ原稿を送ったそうだが、『ジェーン・エア』が人気を博した後に女性であることを明かし、世間を賑わせたそうだ。

かつて三姉妹はこのような部屋で作品を書いていたという
シャーロットが教鞭を取っていた学校。1966年にブロンテ協会の支援のもと再建された

輝かしい功績を残す三姉妹の一方で、いつまでも花開かないのが長男のブランウェルであった。彼は作家や画家などを目指すもなかなか成功せず、才能を発揮する姉妹たちへのコンプレックスから、最終的にはアヘンと酒に溺れ、1848年に31歳の若さで衰弱死してしまう。

ブランウェルがよく通っていたという村のパブ

彼の死後、死の呪いの連鎖がブロンテ一家を襲う。同年エミリーは結核にかかり30歳で亡くなり、アンも翌年に同じく結核にて29歳で亡くなる。シャーロットはその後結婚し妊娠するも、1855年に妊娠中毒症でお腹の中の子供と共に38歳で死亡。六人も子供がいたブロンテ家は、最終的に父親のパトリックのみが一人残ることとなり、さらに皮肉なことに彼は84歳まで生きた。子供たちと妻の早すぎる死を見送り続け、一人で過ごした長い余生はどんなに孤独だっただろうか。

幼少期から母親と姉たちの死を経験し、体調の優れないブランウェルを始終看病するなど、 三姉妹の短い生涯は晴れ渡ることなく常に暗い死の影に付きまとわれていた。だからこそ彼女たちの作品は「Dreary」な雰囲気で包まれているのかもしれない。

自らの道を見出せないブランウェルの苦悩に焦点が当たっているものの、 BBCのドラマのTo walk invisibleがブロンテ一家の生涯を詳細に描いているのでおすすめだ。

ブロンテ一家が地下に眠る村の教会。末っ子のアンのみスカボローの教会に収められている

ヒースの茂る荒野

ここには『嵐が丘』の舞台となったムーアと呼ばれる荒野がある。夕暮れ時だったせいか他に観光客はおらず、静寂に構いなく騒ぎ立てる風に導かれながら一人歩くことにした。

ヒロインのキャサリンと恋仲になり、彼女の奪還や自らを貶めた男への復讐を図る、ヒースクリフの名前はおそらくこの荒野から着想を得たのだろう。「heath(ヒース又はヘザー)+cliff(崖)」の名の通り、ヒースがびっしりと生えた、崖の切り立つ荒々しい丘。粗野でありながら捉えどころのないヒースクリフの性格にぴったりだ。

私が訪れた時は虹までかかるような晴天だったので、「Dreary」な雰囲気とはかけ離れていたが、風で木の枝のこすれ合う音が今にも「ヒースクリフ」とささやくキャサリンの亡霊の声に聞こえてきそうだった。

丘の上に続く一本道を進む。夏場は 紫色のヒースの花が一面に咲き渡るようだ
本のモニュメントが地面に埋もれているのを発見。文学好きの心をくすぐる演出だ
険しい岩肌が露出した小山がいくつも連なる

吹き荒れる風の中、丘からの雄大で美しい景色を目にすると、ああ、ここなら『嵐が丘』のようなストーリーが思い浮かぶはずだと、当時のブロンテ姉妹たちと繋がったような気持ちで感傷に浸ってしまった。既存の言葉では表しようのないこの自然を、エミリーが造語で「Wuther」と表現したのも納得だ。

風景のあまりの美しさも相まって、『嵐が丘』のストーリーと重ね合わさるブロンテ家の悲惨な運命に胸を締め付けられ、またここに戻ってこようと強く心に決めた。ブロンテ姉妹の作品は私をゴシックの世界へ招き入れてくれた原点。そして、ここを訪れることで、やはり私はこの世界が好きだと確信させられ、さらに前へ進む活力をもらえた。

彼女たちの魂が彷徨うこの地をまた訪れよう。次はヒースの花が咲く頃に…

Catherine Earnshaw, may you not rest as long as I am living; you said I killed you – haunt me, then! The murdered DO haunt their murderers, I believe. I know that ghosts HAVE wandered on earth. Be with me always – take any form – drive me mad! only DO not leave me in this abyss, where I cannot find you! Oh, God! it is unutterable! I CANNOT live without my life! I CANNOT live without my soul!

キャサリン・アーンショウ、俺が生きている限りは安らかに眠るな。俺がお前を殺したと言っていたな、ならば俺を呪え!殺された者は殺した者を呪うものだ。幽霊は地上を彷徨い歩くのだろう。ならばいつも俺の傍にいてくれ、どんな形でも構わない、俺を狂わせてくれ。お前のいないこんな地獄に俺を一人にするな。おお、神よ!なんと言ったらよいのだ!自分の命を失っては生きていけない!自分の魂を失っては生きてなどいけないのだ!

-Emily Brontë, Wuthering Heights
訳:mikako

最新情報をチェックしよう!