妖精と耳にすると、まず想像するのは小さく可愛らしい姿ではないだろうか?ディズニー映画を筆頭に、現代の私たちが触れる妖精のキャラクターは人間に優しい存在として描かれているが、古くからイギリスに伝わる妖精は、時に人間の子をさらったり、家畜を盗んだりなど人間に害をもたらす恐ろしい存在でもあった。外見も醜悪な小人であるゴブリンや、恐ろしい巨人であるトロールのように必ずしも美しくはない。このような当初の不気味な妖精のイメージは、シェイクスピアが作品の中で妖精を人間よりも小さく美しい存在として描いて以来、次第に薄まっていったのだった。
今回は妖精の怖い一面を垣間見ることができる、ある人物にまつわる奇妙な伝説の世界へご案内したい。
「妖精牧師」ロバート・カークとは何者?
スコットランドのグラスゴーから北西へ約43km。アバーフォイルの村は、詩人・小説家であるウォルター・スコットの著書『湖上の美人』(原題:The Lady of the Lake)の舞台となって以来、観光名所として広く知られ始めた。しかし、地元の人に聞けば、この村を有名にした立役者の一人におそらくロバート・カークの名を挙げるだろう。今回私がはるばるアバーフォイルを訪ねた目的はただ一つ。謎に包まれたロバート・カークのゆかりの地を探検するためだ。

よっぽどの妖精好きでない限り、おそらく日本でロバート・カークの名を知る人はそう多くないだろう。ここで簡単に彼の来歴を紹介したい。
ロバート・カークは1644年にスコットランドのアバーフォイルの村に生まれ、様々な方面で功績を残している。まず、牧師でありながら、言語学者として初めて聖書をスコットランドで話されていたゲール語へ翻訳することに成功し、スコットランドの民間人へのキリスト教布教に貢献した。そして最も重要なのは、著作『秘密の共和国』(原題:The Secret Commonwealth of Elves, Fauns and Fairies)の中で、妖精やセカンド・サイト(妖精が見える人、予知能力のある人のこと)などスコットランドのハイランド地方に伝わる伝承について記録したことだ。中世時代に庶民が信じていた妖精などの超自然現象についてまとめたこの文献は、民俗学の中で大変貴重な資料として扱われている。彼のこの功績により、彼は別名「妖精牧師(The Fairy Minister)」とも呼ばれている。
ちなみに『秘密の共和国』の邦訳は出ていないが、『英国ロマン派幻想集』の中で荒俣宏氏により一部翻訳されている。カーク牧師が記した当時のスコットランドでの妖精信仰はなんとも興味深い。

たとえば、妖精はふわふわと軽い霊体に知性を持ち、人間世界と似たような階級や職業の他、結婚や葬式などの習俗まであるらしい。彼らは地中世界に住んでいるが、人間の住んでいない丘や、森、林にも生息しており、それらの地に人間が足を踏み入れると何かしら災いがあると信じられていた。ブラウニーという名の妖精のように、人間の食料を分けてもらう代わりに、家事や家畜の世話などを手伝ってくれる善良な妖精もいるという(ハリー・ポッターシリーズの「屋敷しもべ妖精」のモデルと言われている)。一方で、人間の既婚女性や子供をさらうなどの危害をもたらす妖精もおり、妖精に連れ去られると、女性は妖精の子供の世話をさせられ、子供は妖精の領地の相続人にさせられるようだ。このような妖精からの災いを防ぐため、スコットランドの人々は妖精が苦手とするパンや聖書などのキリスト教に関連するもの、または鉄のかたまりを家の中に置いたり、妖精が住処を移動する季節の変わり目にお清めの意味で教会へ出かけたりする習慣があったそうだ。
ブラウニー(画:アーサー・ラッカム)
出典元: By Arthur Rackham – Arthur Rackham’s fairy tale illustrations, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=70859705
カーク牧師のゆかりの地を歩く
アバーフォイルの村は、カーク牧師が生まれ育ち、牧師を務め、なおかつ奇妙な最期を迎えた場所。現在ではカーク牧師にまつわるスポットを巡る散策用のルートが作られ、私のような観光客を呼び寄せているのである。アバーフォイルの村に到着すると、予想通りアジア人は一人も見かけない。観光案内所でもらった地図をもとに、歩き始めることにした。
目指すはドゥーン・ヒルという丘だ。この丘は、カーク牧師が「妖精世界への入口」と信じていた場所で、日常的に散歩に訪れていたらしい。しかし、1692年5月のある夜、カーク牧師は就寝前にこの丘へ出かけたきり、そのまま帰ってこなかった。その後、頂上で倒れているのが発見され、すぐに亡くなったという。後に、カーク牧師は『秘密の共和国』の中で妖精の秘密を暴こうとしたために、妖精に連れ去られてしまったのだという説が地元の人々の間で広まった。


農場の雄大な景色を横目に閑静な住宅街を進んで行くと、先ほどまで遠くに見えていた丘に辿り着いた。季節は5月。ブルーベルの花が可憐に咲く森の中を気持ちよく散策していたら、所々に妖精への敬意を表明していると思われるツリーハウスを見つけた。周りを見渡しても私以外誰もいない。静けさの中ここでじっとしていれば、今にも妖精が顔を出しそうな雰囲気だ。

丘の頂上に到達すると、ミニスターズ・パイン(「牧師の松の木」という意味)と呼ばれる立派な松の木が立っていた。伝説によると、妖精の仕業によりこの木の中にカーク牧師の魂が閉じ込められているらしい。木の幹には色とりどりのリボンが飾られている。訪問客が妖精への願掛けに、思い思いの願いを書いてくくりつけていくようだ。


心が洗われたような不思議な気持ちになりながら下山し、来た道を戻る途中、住宅街の中にもう一つの目当てであった墓地を見つけた。古い墓石たちは先ほどまで登ってきたドゥーン・ヒルに顔を向けている。勇気を出して廃れた門を恐る恐る開き、誰もいない墓地に足を踏み入れる。
敷地の中心には、屋根のない廃墟と化したカークトン教会がひっそりと立っていた。この教会の裏手にカーク牧師の墓がある。古いせいかほとんど墓石の文字は見えなかったが、参拝者によるたくさんのコインがその上に置かれていたので、すぐにそれと判明した。墓石をよく観察しても、妖精や謎の死については特段言及されていない。
言い伝えによると、棺桶に入れられたカーク牧師の身体は妖精に盗まれ、代わりに妖精の置いて行った巨石が入っているとか…なんとなく背筋が冷える気がしたので、カーク牧師に手を合わせ日が暮れる前に立ち去ることにした。

一度訪れただけでは謎の解明までは踏み込めなかったが、まるで異世界のような雰囲気に、人々が妖精伝説を信じる気持ちも不思議と理解できるような気がした。丘ではたまたま自分が特別な目(カーク牧師の言うセカンド・サイト)を持ち合わせていないために妖精が見えなかっただけで、本当はあの場に存在していたのではないだろうかとさえ思えた。ファンタジーをお好みの方は、スコットランドを訪問する機会があれば、ぜひアバーフォイルに立ち寄ってみてはいかがだろうか。